報告記――『ブラディ・ポエトリー』
岡 隼人
Burn him. Burn us all. A great big bloody beautiful fire.
――Bloody Poetry
『ブラディ・ポエトリー』(Bloody Poetry)はハワード・ブレントン(Howard Brenton)の劇作である。彼は1942年にポーツマスに生まれ、ケンブリッジ大学で英文学を学ぶ。戦後イギリスで最も成功を収めた政治劇作家の一人として、歴史上の出来事や人物を題材に現代の政治や社会を風刺する劇を多く執筆している。『ブラディ・ポエトリー』が初めて上演された1984年、ブレントン は「テレグラフ」(Telegraph)に次のようにコメントしている。「1983年の選挙で保守党が地滑り的に大勝利を収め、マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)が共和制の伝統的イギリスの革命的精神をズタズタにした時、僕はこの本を書いた。――思い出そう、イギリスの厳しい戒律があった時代にこの偉大な詩人たちは無神論者を通し、革命を謳った。僕らは彼らの声に耳を傾けるべきだ!」この4年後に本劇はロイヤル・コート劇場(Royal Court Theatre)で再演された。ブレントンのコメントを読めば分かるとおり、「怒れる若者たち」の時代にちょうど青年期だった彼は、イギリス・ロマン派の若き詩人たちの革命的精神に自分たちの「思い」を重ねてこの劇を書いた。
本劇の登場人物は6人―パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)、ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron)、メアリ・シェリー(Mary Shelley)、クレア・クレモント(Claire Clairmont)、ジョン・ウィリアム・ポリドーリ(John William Polidori)、そしてハリエット・ウェストブルック(Harriet Westbrook)。本劇はパーシーたちがレマン湖畔に到着する場面から幕を上げ、彼の死で以って幕を下ろす。そのため主役はパーシーと言えるだろう。しかし、どのキャラクターも個性豊か(史実の彼らの個性が既に豊かすぎるほど豊かであるが…)かつ魅力的に描かれている。本劇がセリフ劇と呼ばれるように、彼らのセリフはウィットとユーモアに富み、心地よい深い思索の機会を与えてくれる。
この非常に興味深い劇を、演出家の大河内直子さんとプロデューサーの田窪桜子さんによる演劇ユニットunratoが日本で初めて舞台化された。上演はタイムリーなことに『フランケンシュタイン』(Frankenstein; or, The Modern Prometheus)出版から200周年の記念の年。そして、幸運なことに私はこの舞台に協力することになった。シェリー研究センターより舞台協力の依頼を頂いたのは昨年の夏頃だ。恥ずかしながら私は『ブラディ・ポエトリー』を読んだこともなかったし、その名を聞いたことさえなかった。早速、劇本を取り寄せて読んでみた。決して難解な文ではない上に、テンポの良い会話の場面が多いこともあって一気に読み切ることができた。しかし、途中立ち止まってセリフを咀嚼しつつ読んでみるとその奥深さに気づかされ、なかなか前に進めなくなるような劇でもある。それと同時に、時代背景や各キャラクターに関する知識がある程度ないと、この劇を真に理解することは非常に難しいと思った。
大河内さんとの挨拶を終え、やはりまず話題に上がったのは、この劇を理解する上で必要となりそうな知識は何かということだった。私はこれまでのイギリス・ロマン主義研究をする上で役に立った本をリストアップして大河内さんにお送りした。私自身はメアリ研究を専門としているので、それ以外の登場人物の研究書等を探すのには苦労したが、大学図書館に通い、昔読んだものから新しく発見したものの中で劇作を読み解く上で重要と思われる本を選別した。特にポリドーリとハリエットに関しては参考になりそうな本がなかなか見つからなくて苦戦した。劇の前半はディオダディ荘(Villa Diodati )でのエピソードが中心となるので、そのエピソードについて詳しいモネット・ヴァガン(Monette Vacquin)著『メアリ・シェリーとフランケンシュタイン』(FRANKENSTEIN ou les délires de la raison)をまず選び、 また、イギリス・ロマン主義時代の歴史と思想を理解する上で研究開始当初から繰り返し読んだ、岡地嶺著『イギリス・ロマン主義と啓蒙思想』とH. N. ブレイルスフォード(H. N. Brailsford)著『フランス革命と英国の思想・文学』(Shelley, Godwin, and Their Circle)もご紹介した。研究書に加え、日記、手紙、映像作品、ウェブページなどもリストアップした。
さて前置きが長くなったが、ここからは劇のあらすじを辿りながら大河内さんのオリジナリティに富んだ演出方法と私のちょっとした考察と感想を書いていきたいと思う。
劇はパーシーら一行が馬車でレマン湖畔へ向かう場面から始まる。舞台の幕には、風刺画家であり挿絵画家でもあるジョージ・クルックシャンク(George Cruikshank)の描いたピータールーの虐殺(The Peterloo Massacre)の風刺画が投影されていた。その幕(カーテン)が、開演と同時に観客席の背後から舞台正面に向かって駆け下りてきた出演者たちによって引き下ろされて、幕が「上がる」。舞台上に勢ぞろいした彼らの衣装は基本的に白で統一されており(以前黒瀬悠佳子先生に一斉送信していただいたメール添付の舞台のチラシの中で着られている衣装に近いもの)、ロマン主義の性質の一つと言える自然状態を表しているように見えると同時に現代芸術的な様相を呈している。また、出演者たちの立つ舞台には白砂が敷き詰められているだけで、場面が変わっても最小限の小物がそこに用意されるにとどまり、観客それぞれの自由な解釈を可能にしているように思われた。その真っ白な舞台は、アルプスの場面では不思議と雪原に見え、イタリアの海岸の場面では砂浜に見えてくる。
最初の場面でパーシーは馬車に揺られながら二つの詩を詠みあげる。彼の代表作「モンブラン」(“Mont Blanc”)と「イングランドの人々へ」(“To the Men of England”)を。これはこの劇の重要なテーマであると思われる「理想」と「現実」の葛藤を、この二つの詩を並立させることで(地理的にも)表現しているように感じられた。レマン湖畔に到着した彼らは、バイロンの戯れと皮肉たっぷりの歓迎を受ける。ついに「イギリスの偉大なる詩の神」であるパーシーと「今のイギリスで最高の詩人」であるバイロンとの「歴史に残る会見」が行われる。最初は互いの手の内を探り合いながらのよそよそしい会話を交わす二人だったが、次第に詩作に対する思いを語り始める。ここではバイロンに負けじと自分の思いを大真面目に語るパーシーと、彼の周りをワイングラス片手にふらふらとうろつきながら、彼が酒を飲めないことなどを小ばかにしてはその反応する様子を可笑しがる垢抜けたバイロンとが対照的なキャラクターとして表現されている。そして、この二人の会話にメアリとクレアのウィットに富んだ合いの手がさらに拍車をかける。イギリスの批評家たちによる執拗な攻撃、ワーズワース(William Wordsworth)やサウジー(Robert Southey)の裏切り、シェイクスピア(William Shakespeare)談義と次々に会話のネタは変化していく。この劇はまさしくセリフ劇だと感じられる場面であり、観客が彼らのセリフを咀嚼しないうちにまた次の意味深なセリフが発せられる。そのスピードに頭がついていくのが大変なのだが、知性とユーモアに溢れたセリフが次々に耳に入ってくるのも心地よい。
バイロンの戯れに満ちた問答テストのようなものを見事切り抜けたパーシーは彼にその才能を認められ、気に入られる。そして、夕食を終えた四人がそれぞれ愛する者同士、愛を交わしているところに嵐でびしょ濡れになったポリドーリがやってくる。興味深いことに、本劇においてポリドーリは『テンペスト』(The Tempest)のプロスペロー(Prospero)よろしく語り手の役も担っている。彼はパーシーたちから除け者扱いされる代わりに、観客を自分の仲間に引き込もうとする。彼はパーシーたちに非常識で狂った連中という烙印を押し、この自分だけが理性を持った「まともな」存在だと観客に訴えかける。「いや。私は孤独だ。どうして奴らは私を二流だというのか、そうじゃないのに!私は二流なんかじゃない。シェリーは今までに良い批評を受けたことがあるか?私は誰に対しても不作法なことなどしたことがない。二流の行いなどしたことはない!奴らを見てみろ。バイロンはひどいアルコール中毒だし、シェリーは拒食症の神経疾患患者だ!...そんな奴が、知識人に自由の天使ともてはやされるのだ。そうじゃない...」なぜ不道徳なシェリーやバイロンが評価されて、「まともな」自分が彼らに馬鹿にされなければならないのかという、一種の嫉妬心が生んだ恨みの言葉をポリドーリは語りかける。まるで映画『アマデウス』(Amadeus)のサリエリ(Antonio Salieri)のように。
こうして除け者扱いされているポリドーリは、シェリーたちが始めたプラトン(Plato)の「洞窟の比喩」(The Allegory of the Cave)ゲームの餌食となる。彼は囚人役としてベルトで縛り付けられ、壁を向いた状態で座らされる。その背後にはロウソクが置かれ、メアリとクレアが手で影絵を作りポリドーリを怖がらせる。この場面でメアリはとても面白い独り言をつぶやく。「もしも…もしも、私たちが、洞窟の壁に造った影が…出てきたら、どうする?私たちの方へやってきて、生命を与えてくれ、といったら?それで、生命を与えたとしたら、どうなる?」このセリフを聞いて誰もが『フランケンシュタイン』の怪物を連想するはずだが、この劇には随所にメアリが思いつく『フランケンシュタイン』誕生までの断片的なアイディアが散りばめられており、この劇を『フランケンシュタイン・ビギンズ』のように見ることも可能だと私は思った(私自身『フランケンシュタイン』研究が主なのでそういった箇所にばかり意識が行ってしまったことも事実だが…)。また、この場面における演出は本舞台の中で最も印象的だった。パーシーがロウソクの前にいて、自分の影に恐れおののきながら後ずさりする。すると、その影は彼が後退すればするほど大きくなっていく。まるで怪物がヴィクター(Victor Frankenstein)を追い詰めるように、巨大な影がパーシーに向かって少しずつ近づいて来ていると錯覚してしまう。神経に過度の負担がかかったパーシーはここで発作を起こし、メアリを見ると叫び声を上げて一目散に逃げ去っていく。彼は幻覚を見たのだった。第一幕終了。ここでいったん10分間の休憩が入る。
第二幕。真夜中のロンドン、ハイドパーク(London, Hyde Park)。パーシーに捨てられたと思い込み自暴自棄になった狂気のハリエットが彼に対して恨み言を並べながら入水自殺する。彼女はこれ以降もパーシーにしか見えない亡霊となって、逃れることのできない過去の罪を象徴するかのように彼の前に現れる。ハリエットの死のニュースを知って弱気になるパーシーをメアリは説き伏せて、遂に二人は結婚を決意する。そして、クレアと三人(この場にハリエットの亡霊もいるので実は四人)でスキャンダルに沸くイングランドを後にして、イタリアへ向かう。パーシーはまだ幼いクララをメアリのもとに残し、アレグラ(Allegra)の件でバイロンと話をつけるためクレアと一緒に彼のいるヴェニスに行ってしまう。手をつなぎ仲睦まじい様子のパーシーとクレアの後をハリエットの亡霊がにやつきながらついていく…。
クレアといったん別れてバイロンのいる屋敷に来てみると、彼はイタリア人の人妻と揉めている最中だった。赤ワインの瓶を片手に、口にはパイプを咥え、前よりも白くなった髪を乱し、やつれ切ったバイロンがパーシーの前に現れる。パーシーがアレグラのことを切り出すと、彼女を修道院に入れるつもりでクレアに会わせるつもりはないと冷たく答える。二人は会話を続けるが、ディオダディ荘で出会ったバイロンとはどうも様子が違う。彼はこの世のすべてに絶望したことを冷たい笑みを浮かべながら打ち明ける。「〔ヴェニスには〕俺たちがあこがれていたような文明とか、芸術、光なんてものはもうない。」彼は変わってしまった自分自身にも絶望する。恋した女性のもとへ行く途中、ロンドンのデイリー・メール(The Daily Mail)特派員に見つかった際に、昔の自分ならばそんなことなど気にせずに女性のもとへ急ぐか、その特派員をやっつけにいったのだが、現実の自分はその特派員に金を握らせて黙らせたとバイロンは自己嫌悪に満ちた様子でパーシーに告白する。自分を裏切ったことで絶望するバイロンをパーシーは『詩の擁護』からの引用を交えて励ますが、バイロンはそんなものは理想論でしかないと切り捨てる。そして、彼が「きちがい館」と呼ぶところへパーシーを案内する。暗闇の中、バイロンは窓辺に座っている彼が「私の影」と呼ぶ「狂人」に語りかける。「私が書くものは頭脳を焼きつくし消耗させてしまう。」すると、その「狂人」は引きつったような声でこう答える、「最もみじめな生きもの、彼らは間違って、詩のゆりかごで育てられる彼らは苦しみから学び、詩の中で教える。」既にお分かりかもしれないが、この「狂人」はバイロン自身である。劇本ではバイロンが窓に映った自分自身と会話しているように書かれているが、舞台ではバイロンを演じた俳優が窓を使わず両者を二重人格者のように演じていた。「狂人」の言葉を受けて、バイロンはパーシーに皮肉を述べる。「君は社会を変えようとして、ものを書く。そして社会は逆襲する…残酷さでもって君を圧倒するのさ。」パーシーは言葉を失う。そして、その後のト書きには「(狂人は笑い、バイロンも笑う)。」とだけあり、その場面は終わる。バイロンは自分が書いた(生みだした)詩のもたらす苦しみを味わう「みじめな生きもの」(つまり詩人)で、パーシーは社会を思い、社会を変えようと詩を書くが、残酷な社会は彼を痛めつける。どうしてもこの場面も『フランケンシュタイン』のヴィクター、怪物、そして科学の関係性をそれぞれに当てはめて考えてしまった。この場面はディオダディ荘の場面とはまた一味も二味も違った見方でパーシーとバイロンを対比させ、その違いを鮮明にしている。緊迫感溢れる見事なセリフと演技、そして、それらが生み出す観客席にいなければ味わえないような雰囲気を堪能させてもらった。
狂人(バイロン)の言葉に動揺を隠せないパーシーはメアリとクララのもとに戻る。しかし、クララは病死していた。残酷な現実を受け入れることができずに娘を救うと言ってその場を立ち去ろうとするパーシーを、怒りに震えるメアリは引き留める。そして、病気の娘を無理にヴェニスに連れて来た上に、自分ひとりに押し付けてクレアと遊び歩いていた彼を激しく責めたてる。パーシーは社会を救うために詩を書くと主張するが、メアリは出版さえされず社会に届かないような詩を書いても無駄だと切り捨てる。またメアリは、家庭をかえりみないパーシーが自作の詩の中で愛を語っている矛盾を皮肉たっぷりに非難する。この場面でパーシーとメアリとの間にある埋めることのできない溝が浮き彫りになる――自分の理想を詩に込めて心の赴くままに大空を翔るパーシーと、彼の理想を理解はしながらも現実生活を優先させる地に足のついたメアリとの間にある溝。
この後、アレグラの死、パーシーとジェーン・ウィリアムズとの関係、パーシーの新しい詩といった話題がパーシー、バイロン、メアリ、クレアたちによって語られる。そして、舞台は最後の場面へと移る。ポリドーリによってパーシーが溺死したことが伝えられる。彼の考えではパーシーは自殺したのだという…。舞台は暗くなり、中央にパーシーが現れる。静寂の中、彼は『無秩序の仮面』(The Masque of Anarchy)の一部を謳う。嵐が船上の彼を呑み込み舞台は暗転する。照明がつくと、そこにはパーシーの亡骸が帆にくるまれて置かれている。それを手前にいるハリエットの亡霊がじっと見ている。そこへバイロンがやって来て嘆きの言葉を語る。「死体は海岸で焼こう。俺は、彼が好きだった。社会が残酷なまでに受け入れてやらなかった男が、また一人、こうして逝ってしまった。慈悲があるなら、海が彼の肉体をどうしたか見てくれ。彼を焼け!焼け!焼け!俺たちみんなを焼け!でっかくて、血のような、美しい炎で!」ここで舞台は幕を下ろす。
本舞台は途中10分休憩を入れて2時間40分ほどもある。この報告記では紙数の関係上、所々の場面を省略した形でしかあらすじを紹介できなかった。それでもこの短縮版のあらすじの中だけに限ったとしても、各登場キャラクターや彼らの活躍した時代についての予備知識がないと、この舞台を十分に理解することが難しいことはお分かりいただけると思う。そういったこともあり、開演のひと月ほど前に、プロデューサーの田窪さんから劇場で販売するプログラム用に、本舞台を理解する上で最小限必要となる時代背景とパーシーについて一般向けの解説執筆のご依頼を頂いた。2000字程度の短いものだったが、劇中にポープ(Alexander Pope)への言及がされることもあって古典主義から啓蒙主義、ロマン主義への時代の流れをウィリアム・ゴドウィン(William Godwin)を軸にして辿った。他には、ロマン主義とは切っても切れない関係にあるフランス革命とロマン派第一世代との関係も書いた。
この解説をプログラム編集ご担当の今井浩一さんにお送りしたところ、大河内さんたち製作スタッフが気に入ってくださり、開演一週間前に私が観劇に行く2月10日(18時~)の舞台後のアフタートークのお話を頂戴した。こういった経験は初めてな上に、人前で話すことが苦手な自分が舞台上で大勢の観客を前にして果たしてまともに話せるか不安だった。正直前の晩はあまり寝れなかったし、観劇中もアフタートークのことが絶えず気になって作品に全神経を集中することはできなかった。舞台が終わると、俳優の方たちがそろって前でご挨拶をされ、その間に私は舞台裏に連れていかれた。終演後10分の休憩中に舞台裏で、舞台上のどこに座るか、入場のタイミングといった打ち合わせをした。舞台裏を見られたのはラッキーだったが緊張は頂点に達していた。観客のほとんどは終演後もそのまま席に座ってアフタートークを待っていた。アフタートークは大河内さんの司会のもと、パーシー役の猪塚健太さんとメアリ役の百花亜希さんと私の三人で進められた。大河内さん、猪塚さん、百花さんも実在のパーシーとメアリを研究している私が、お二人の演じられたフィクションとしてのパーシーとメアリをどのように感じているかご興味があると同時に、否定されないか恐れていたと仰っていた(そんなつもりは毛頭ない)。また、私が実はメアリの研究者だと言うと、猪塚さんがてっきり私がパーシーの研究者だと思っておられたらしく、「ショックです…」と冗談交じりに仰って会場は笑いに包まれた。最後にラストシーンの演出についてお話した。劇作を何度も読んでから舞台を見た中で、最後の場面は一番自分のイメージと異なっていた。パーシーの遺体を前にバイロンが哀悼の辞を述べる場面なのだが、劇作のト書きに「ビッシュの体が帆にくるまれて舞台上におかれている。バイロンはその後に立ち、それをみつめている。彼は距離を保っている。」と書いてあるのと、この場面を読んだ際にルイ・エドゥアール・フルニエ(Louis Édouard Fournier)の『シェリーの葬儀』(The Funeral of Shelley)という絵画が頭にイメージとして浮かんできたこともあり、悲しみにうなだれるバイロンが遺体のパーシーを見下ろしながらセリフを言っているというビジョンが私の中では固定されていた。しかし、大河内さんは敢えてト書きの箇所を無視されて、バイロンが最後の「彼を焼け!」以下のセリフを言う際にパーシーの遺体を抱きかかえ、そこに神々しい陽光が射して二人を照らして終わりを迎えるというドラマチックなエンディングに変えられた。この場面には非常にこだわられたそうで、その分とても印象的だった。お三方のフォローもあり、なんとかアフタートークを終えることができた。実際、時間としては20分だったのであっと言う間であった。学会での研究発表の質疑応答時とはまた違った緊張感だった。
観劇後に東京を離れるつもりだったので、あまり時間は取れなかったが、アフタートーク後に出演者の方たちや翻訳をご担当された広田敦郎さんとお話する機会があった。出演者の方たちが意外とシャイで驚いたが(特にバイロン役の内田健司さんは舞台上とは全くキャラクターが異なる)、それぞれが演じられた役に対するアプローチなど面白いお話を伺うことができた。広田さんとも原文の解釈について非常に興味深いお話ができた。劇中の所々に挿入される詩や抽象的な言葉を翻訳するのに苦労されたとのこと。例えば、パーシーのThe Triumph of Lifeの“life”は『生』、『生命』、『人生』…というように訳すことができるが、どの訳を選ぶかで解釈に大きな変化をもたらす。私自身は、この『ブラディ・ポエトリー』という劇はパーシーの抱く天高く舞い上がるような理想と彼を地上に縛り付ける(全ての人間が辿る人生という名の)現実との相克を描く劇だと初めて読んだ時に捉えていたので、『人生』と訳して読んでいた(もちろんThe Triumph of Lifeの内容からも影響を受けている)。一方で、広田さんは『生命』という訳語を選んでおられた。その理由を伺ってみると、クララが死んでパーシーとメアリが口論した場面の後に、メアリがクレアに対してパーシーの新しい詩のタイトルを皮肉る次の場面があるためだと仰った。“Do you know what the new poem is called? . . . It is called ‘The Triumph of Life.’”このセリフからはメアリの、自分の娘の“life”にさえも無関心な者がThe Triumph of Lifeなどという詩をよく書けるものだという非難が読み取れるので“life”を『生命』と訳されたそうだ。最後に本舞台の再演があればその際にまたお会いする約束をして皆様とお別れした。
→ブレントンは『ブラディ・ポエトリー』の大部分で、クレアとの不義やメアリとの不仲といったパーシーの影の部分に焦点を置いている。そのため予備知識がない人が読むと、彼にあまり感情移入できないのではないかと感じた。彼が一方で奴隷反対や動物愛護といったように弱者に味方する博愛精神の心も持っていたことを知っていれば、この劇の中でパーシーが理想と現実のはざまで苦悩する様子をより深く理解できるであろう。闇の部分を深く理解するには光の面もそれ相応に必要なはずである(その逆も然り)。
→話変わって、私自身は本劇中のバイロンのパーシーへの思いに一番心打たれた。ディオダディ荘ではパーシーに皮肉交じりのジョークを言えるほどだったバイロンは、イタリアでの自分自身に対する裏切りがもたらした諦念と絶望に打ちのめされパーシーの理想論を否定しようとする。詩や社会に入れ込んでも、自分が不幸になるだけだと。しかし、パーシーは理想を捨てることなく最後の最後まで詩を書き続ける。そんな彼が溺死したと知ると、今までの皮肉めいた笑みを一変させバイロンは深い悲しみを吐露する。彼の最後に言うセリフ「俺は、彼が好きだった。」はまごうことなきバイロンの本心であろう。
ロマン主義を具現化したような『ブラディ・ポエトリー』のパーシーの生きざま、死にざまは傷ひとつない「理想」(パーシーにとっては詩に当たるだろうか)ではなく、現実の人生で出会う様々な苦難によってボロボロになり血まみれになった「理想」の姿を私たちに提示しているのではないだろうか。その亡骸をバイロンが最後に哀れみ、(舞台版では)抱きかかえてやるのだ。
この度の舞台協力のお仕事は本当に貴重な経験になった。博士論文執筆のプレッシャーで研究活動が少し憂鬱になっていたのと、分厚い研究書とにらめっこを続けていたメアリ研究に少し疲れていたところにこのお話をシェリー研究センターより頂き、新たな角度と気持ちで研究に向き合うことができた。大河内さんに研究書等を紹介する際にはメアリ研究を始めた六年前の初心に戻ることができたし、劇・舞台に関わったことで作品だけでなく、たくさんの人と出会い、お話しすることでロマン主義の世界を広げることもできた。さらに、プログラムへの寄稿とアフタートークを通じて研究でため込んだ知識を人と共有し、またそれを増やしていくという研究者としての喜びも再認識できた。
最後に、こんな若輩者の私を温かく迎え、頼ってくださった大河内さんをはじめとする舞台関係者の方々、そして推薦していただいたシェリー研究センターに厚く御礼申し上げたい。未見の方は再演の際に是非劇場に足を運んでいただければと思う次第である。(おか はやと)
【舞台情報】
『ブラディ・ポエトリー』
(Bloody Poetry)
2018年2月8日(木)~18日(日)
赤坂RED/THEATER
脚本:ハワード・ブレントン(Howard Brenton)
演出:大河内直子
翻訳:広田敦郎
プロデューサー:田窪桜子
企画・製作:アン・ラト(unrato)
主催:ナッポスユナイテッド、
アイオーン
【出演】
パーシー・ビッシュ・シェリー:猪塚健太
ジョージ・バイロン:内田健司
メアリ・シェリー: 百花亜希
クレア・クレアモント:蓮城まこと
ハリエット・ウェストブルック:前島亜美
ウィリアム・ポリドーリ:青柳尊哉