(Munich+Ingolstadt)/2 > √Franken×stein
~フランケンシュタインの根源を求めて
ミュンヘン・インゴルシュタットへの旅~
宇木 権一
初めに
ヴィクター・フランケンシュタインが怪物を創造した聖地インゴルシュタットに訪れたいとフランケンシュタインの研究者は誰しも一度は思うでしょう。フランケンシュタインパックツアーというものがあればいいのですが、残念ながら存在していません。その為、自らでプランを考えフランケンシュタインの聖地を巡ろうと考えると、インゴルシュタットに日本から直通便は出ていないため、どこか別の都市を拠点にする必要があります。
その拠点として、今回私が選んだのがミュンヘンでした。最寄りのミュンヘン空港は、日本からの直通便も出ており、インゴルシュタットに近い最も大きな都市といえるでしょう。古くからバイエルン王国の首都として栄えたミュンヘンは、現在では、首都ベルリン、港湾都市ハンブルクに次ぐ3番目の人口を抱える、南ドイツでは最大の都市です。そして、インゴルシュタットもバイエルン王国に代々治められてきたこともあり、その首都であるミュンヘンもフランケンシュタインにも関わりがあるのです。
ミュンヘン、それからインゴルシュタットでのフランケンシュタインとの関係を紹介していきます。
ミュンヘン
・ミュンヘンとフランケン地方の歴史
フランケンシュタインのフランクは、ゲルマン系のフランク人、及びフランク王国に由来しています。フランク王国の支配の中、現在のドイツの中央付近はフランケン地方と呼ばれるようになります。その後、コンラート1世(Konrad I:881-918年)が一帯を支配し、フランケン大公となりました。しかし、その子孫が神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世に反旗を翻して敗北してしまい、それ以降フランケン大公は廃絶となり、ドイツの中央に位置している重要性を考えてか、大きな領主は置かれませんでした。代わりにフランケン地方の小さな領主達が集まりフランケン・クライスという共同体を作っていました。
そのフランケン地方付近には、現在のダルムシュタット近郊にフランケンシュタイン城が現存しています。ここにはかつて、錬金術師ヨハン・コンラート・ディッペル(Johann Konrad Dippel:1673-1734年)が住んでいました。ディッペルは、コンラートの名を持っていたり、フォン・フランケンシュタインを自称していたので、フランケン大公と何らかの関わりがあったのかもしれません。彼は、死体を使った実験などを行っていたと言われており、ヴィクターのモデルの一人とされています。この城もいつか訪れてみたいものの、ミュンヘンから車で4時間近くかかるため、今回は断念しました。ちなみにドイツには、この城以外にもヴィトゲンシュタイン城、リヒテンシュタイン城、ラインシュタイン城、ヴァイセンシュタイン城、ファルケンシュタイン城など、○○シュタイン城が沢山あります。ミュンヘンからかなり南になりますが、同じバイエルン州の有名なノイシュヴァンシュタイン城(図1)も訪れると良いでしょう。
一方、フランケン地方の南に位置するバイエルンは、12世紀末からヴィッテルスバッハ家が代々治める大国として、神聖ローマ皇帝も輩出するなど力を高めていき、フランケン地方の南部まで勢力を拡大しました。今でもバイエルン州の行政管区には、オーバーフランケン、ミッテルフランケン、ウンターフランケンの三区が存在しフランケンの名前が残ってます。ヴィクターがインゴルシュタットで学んだ18世紀末にバイエルン王国を治めていたのはカール・テオドール(Karl Theodor:1724-1799年)でした。その後も王家の支配は続き、ノイシュヴァンシュタイン城を建てたルートヴィヒ2世などがよく知られています。第一次大戦後に王政は廃止されますが、現在でもその血筋は続いています。彼ら歴代王家の品々はミュンヘン・レジデンツに展示されているので、詳しい歴史を知りたい方はこちらを訪れると良いでしょう。
・ミュンヘンの中心地マリエン広場
そんなミュンヘンの中心にあるマリエン広場のミュンヘン新庁舎(Neues Rathaus)はネオゴシック建築で創られており観光スポットとなっています。(図2) 展望台からは、ミュンヘン市街を一望できます。(図3,4) 景色に見とれるあまり、ホフマンの『砂男』のナタナエルやメルヴィルの『鐘塔』のパンナドンナの様に落ちない様に注意しましょう。展望台から見える二つの玉ねぎ型の塔は、フランケン教会ならぬフラウエン教会(Frauen Kirche)です。この教会はゴシック様式で建てられ、内部には悪魔の足跡と呼ばれるスポットがあります。そこから教会内部を見渡すと数多くある窓が一つも見えないため、悪魔が大笑いして足跡を残していったという逸話が語られています。
新庁舎の中央上部には、グロッケンシュピール(Glockenspiel)という仕掛け時計(図5)があり人気を博しています。Rathaus≒Rat house(ネズミの家)という名前ですが、ホフマンの『クルミ割り人形』の様にネズミの王様が出てくることはありませんので、じっくりと眺めてください。
・フランケンシュタイン的な品々
夏の暑い日にミュンヘンの町中を散策していると、フランケンワイン(Frankenwein)(ドイツ語の発音ではヴァイン)の大きな看板が立っていました。(図6) ドイツといえば、ミュンヘンの有名なオクトーバーフェストなどの影響からビールのイメージが強いかもしれませんが、南ドイツの方はワインも有名です。その一つがバイエルン州のフランケン地方で取れたフランケンワインです。更に、フランケンワインの中にはヴュルツブルクのシュタイン畑で取れたシュタインワインもあります。『若きウェルテル』や『ファウスト』の作者ゲーテもお気に入りだったと言われています。特徴的な緑の丸いボトルは怪物の顔の様に見えます。しかし、フランケン地方の景色や猫のパッケージは売られているのに、フランケンシュタインのパッケージが売っていないのは残念です。原作では、インゴルシュタット近くの森に捨てられた怪物は、ある日近くの羊飼いの小屋にあった朝食の残りを食べます。その際にワインも飲んでいますが、それは南ドイツのフランケンワインだったのかもしれません。ただ、怪物はパンやミルクは気に入ったものの、ワインはあまり好きではなかった様です。(注1) その一方で、映画『フランケンシュタインの花嫁』のボリス・カーロフ演じる怪物の方は盲目の老人からもらったワインを喜んで飲んでいます。原作の怪物もブドウジュースなら飲めるかもしれません。
また、市内の食品店には、ヴィーガン・フランケンバーガー(図7)も売っていましたので、ベジタリアンらしい怪物でも安心です。フランケンの名を関する飲食物があるのですから、オクトーバーフェストだけでなく、フランケンシュタインの怪物の誕生を祝うノーベンバーフェストを開催してほしいものです。
本社はミュンヘンではありませんが、南ドイツにはテディベアの元祖として世界的に有名なぬいぐるみメーカー・シュタイフ(Steiff)(注2)があります。フランケン地方のシュタイフ=フランケンシュタイフなのではという発想はフランケンシュタイン好きであれば一度は思いつくと思います。最近では、日本のフランケンシュタインの子供たちともいえる鉄腕アトムやドラえもんとのコラボレーションを行っているシュタイフであれば、あってもおかしくなさそうです。探してみた所、かつて限定品として販売されており、ヴィンテージものとなっています。(図8)
この様に、隠れフランケンシュタインが色々な所に潜んでいるので、それを見つけるのも楽しみの1つです。
・エングリッシャーガルテン
散策に疲れたらエングリッシャー・ガルテン(Englischer Garten)で一休みがおすすめです。(図9) 英国式庭園を意味する名前のこの庭園を設計したのは、ランフォード伯ことベンジャミン・トンプソンです。彼は、大砲の砲身を抉る実験を行い、その際に発生する熱が運動によって発生することを証明して科学にも貢献しました。また、イギリスの王立研究所(Royal Institution)設立の立役者でもあり、ハンフリー・デービーを講師に抜擢しています。デービーの講演は、メアリー・シェリーの時代に人気を博しており、原作におけるヴァルトマン博士の講演の原型とも言われています。実際、イギリスの王立研究所の展示(図10)は、フランケンシュタインの怪物をバックに、デービーの肖像画と2冊の本が飾られるものになっています。その一冊は『フランケンシュタイン』で、ヴィクターがヴァルトマン博士の元を訪れ、化学を勉強しようと決意するページが開かれています。もう一冊はメアリーがインスピレーションを受けたと思われる1802年に王立研究所で行った化学の講演をまとめた本になります。ちなみに、ハンフリー・デービーは後にランフォード・メダルを受賞しており、そういった点でもランフォードとデービーはつながりがあったと言えるでしょう。
科学学会関係で余談をしますと、ミュンヘンに本拠地を置く1759年に設立されたバイエルン科学・人文科学アカデミー(Bayerische Akademie der Wissenschaften)が現在も活躍を続けています。もちろん、ランフォード伯もこの学会の会員でした。有名な会員には、ゲーテやグリム兄弟、アインシュタインなどもいました。動物磁気や催眠術で有名なフランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer:1734-1815年)も所属していました。また、ヴィクターのモデルの一人とも言われる、自らの身体に電気を流して筋肉を痙攣させる実験をしていた科学者ヨハン・ヴィルヘルム・リッター(Johann Wilhelm Ritter:1776 –1810年)は、会員であるとともに、アカデミーに勤務していました。ヴィクターももしかすると、この学会に参加していたのかもしれません。しかし、彼は前近代科学的な秘密主義者でしたので学会に怪物を創造した事を報告する可能性は低かったように思えます。
・ミュンヘン大学
エングリッシャーガルテンの西には、有名なルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(Ludwig-Maximilians-Universität München)、通称ミュンヘン大学があります。この大学の前身は、ヴィクター・フランケンシュタインが学んだインゴルシュタット大学です。ある意味では天才であったヴィクターを育てただけに限らず、その後も、ノーベル物理学賞第一回受賞者のレントゲンがこの大学で教鞭を振るったり、プランク、ハイゼンベルク、パウリなど数々のノーベル賞受賞の科学者を輩出していてます。文学賞受賞者としては『ファウストゥス博士』や『魔の山』で有名なトーマス・マンもいます。また、2018年に立命館大学で行われたシェリー研究センターの年会で、”Germany in Frankenstein”の題で講演頂いた、クリストフ・ボード教授もこの大学で指導を行っています。日本の著名人としては医学者・作家であった森鴎外も1886年から一年ほど滞在し、ミュンヘン大学の教授に指導を受けています。鴎外は滞在中に、ルートヴィヒ2世の訃報を聞き、後に『うたかたの記』が執筆されています。
・ドイツ博物館
マリエン広場の南東の橋を渡ると、ドイツ博物館(Deutsches Museum)があります。(図11) ドイツ博物館という名称ですが、ドイツの歴史を展示しているのではなく、科学技術の展示を行っている国立の博物館です。規模としては世界でもかなり大きいものとなっており、現代のプロメテウス達を育むべく、様々な展示で科学の面白さを伝えています。この博物館はイーザル川の中州にある島の上に建てられており、島の名前もそのままMuseumsinsel(博物館島)となっています。昔は島が度々浸水していたので、ゲーテのファウストの様に自由な科学の島を創るために人々が努力したせいかといえるでしょう。ウェールズでトレマドック堤防修復のために協力したパーシー・シェリーがこの島を見たら讃えたかもしれません。
医学の展示では、医化学の祖とも知られるパラケルスス(Paracelsus:1493-1541年)に言及しています。フランケンシュタイン原作にもその名が出てくるパラケルススはドイツ出身で、人造的に作った小人ホムンクルスの伝説が残っています。また、物理のフロアではランフォード伯が行った大砲の中ぐり実験の模型も置かれています。(図12)
ヴァルトマン教授がヴィクターに科学(作中ではNatural Philosophy自然哲学と呼ばれていますが)への道を開かせた講演を行いそうな講堂(Ehrensaal)では、コペルニクス、ケプラー、ガウス、マックス・プランク、アインシュタイン(図13)らドイツ出身の科学者・数学者の絵画や彫像が飾られています。そしてその中には、少年の頃のヴィクターが影響を受けた一人アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus:1193-1280年)もいます。(図14) ドイツ出身でトマス・アクィナスの師として有名な神学者でもありながら、錬金術に没頭していた彼は、ヒ素の発見で科学にもその名を残しています。彼がフランケンシュタインと関連が深いのは、人造人間を作ったという伝説があるからでしょう。彼は陶器で人造人間を創造し、その人造人間は独りでに動き、言葉を発する事も出来ましたが、訳の分からない事を喋りまくったため、瞑想の邪魔をされて怒った弟子のトマス・アクィナスによって破壊されたそうです。その伝説が流布していた例として、イーフレイム・チェンバーズ編の百科事典『サイクロペディア』(1728年)(ちなみにこの百科事典がフランスに伝わり、ディドロ・ダランベール等による有名な『百科全書』が創られる事になります。)の項目Andoroidesの例文には、「Albertus Magnus, is recorded as having made an Androids.(アルベルトゥス・マグヌスがアンドロイドを造ったと記録されている)」と記されています。(注3)人造人間の意味を持つアンドロイド(Android)という語は、リラダンの『未来のイヴ』(1886年)で用いられたイメージが強いですが、それに先立って使われたのはマグヌスだったのです。
ちなみに博物館には彫像や展示はありませんでしたが、『フランケンシュタイン』原作で言及されているハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ (Heinrich Cornelius Agrippa : 1486-1535年)もドイツ出身です。アグリッパには死者蘇生の伝説があり、神秘学者ヨハネス・トリテミウス(Johannes Trithemius:1462-1516年)の弟子仲間として若い頃パラケルススと交流がありました。また、ヨハン・ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust:1480-1540年)もトリテミウスと交流があったものの嫌われ、そのせいで評判を落とされたとも言われています。メアリー・シェリーは、死から蘇ったフランケンシュタインの怪物を祝福するようにドイツ(ヴィクターの故郷ジュネーブからは東方)の三賢者(Magi)を配置したのかもしれません。
そして、これら科学者の彫像に囲まれたこの講堂の天井には、人類に火をもたらそうとしているプロメテウスが描かれています。(図15)
「You never know who will be the next Einstein. Or Frankenstein.(君が、次のアインシュタインになるか、フランケンシュタインになるかは、誰にもわからない)」(注4,5)
これは1993年ボストン科学博物館の小学生向けの宣伝文句ですが、この科学館博物館の方がふさわしいかもしれません。
インゴルシュタット
ミュンヘンから電車で北上し、フランケンシュタインの怪物の故郷インゴルシュタットへ。日本でも有名な自動車メーカー・アウディの本拠地でミュージアムもあるので、多くの人はこちらに行くでしょう。インゴルシュタットは代々バイエルンに治められていた都市ですが、バイエルン公国が分割相続になった時、ミュンヘン、ランツフートと並んで、ミュンヘン-インゴルシュタット公国の首都になったこともありました。
・インゴルシュタット大学
この地が重要視された要因は、1472年にインゴルシュタット大学(Universität Ingolstadt)が設立された事でしょう。初代学長はクリストフ・メンデル・フォン・シュタインフェルス(Christoph Mendel von Steinfels)であり、何だか不思議な因縁を感じます。カトリックの対抗宗教改革の要としての役割もあったこの大学は、当時最先端の学問の場でもありました。そういった経緯から、神聖ローマ帝国皇帝のフェルディナント2世や初代バイエルン王のマクシミリアン1世などの王族や、科学関係も強かったためメスメルなども学んでいました。また、17世紀後半には、電気盆の研究もしているジョセフ・フォン・ウェーバー(Joseph von Weber:1753-1831年)が物理・化学の教授として指導を行っており、ヴィクターも彼の講義を受けたのかもしれません。大学は1800年にランツフートに移転し、1826年にはミュンヘンに移動して現在のミュンヘン大学となっています。インゴルシュタットでの大学の跡地(図16)は、Hohe Schuleと呼ばれてインゴルシュタットの観光ガイドブックでも紹介されています。Hohe Schuleは高校の意味であり、元々高校があった所にインゴルシュタット大学を創立したためにその名前が残っています。内部にはイルミナティの講堂(Illuminatensaal)もあります。
・フランケンシュタインを生み出す様々な土壌
柳原伸洋の『「想像の場」としてのインゴルシュタット』(注6)で指摘されているように、インゴルシュタットには数々の土壌がありました。具体的には、1528年に実在のヨハン・ゲオルク・ファウスト博士が追放、同時期にパラケルススが奇跡を起こし、18世紀後半には秘密結社イルミナティが結成されており、そしてフランケンシュタインの舞台へとつながっていきます。
マーロウやゲーテの戯曲でも有名な、際限のない知識欲に駆られて悪魔に魂を売り渡すファウスト博士は、ヴィクター・フランケンシュタインを彷彿とさせます。とはいえ、原作中ではファウストに関する具体的な言及はありません。ファウスト博士追放の記述は、観光案内所でもらったガイドブックにも紹介されています。(図17)この記述で興味深い点は、ファウストがネクロマンサー(Necromancer)として追放されている点です。ネクロマンサーとは死霊魔術師とも訳される通り、新鮮な死体を用いて死者と交信したり占ったりする存在です。個人的には、錬金術師あるいは魔術師としてのイメージが強かったので、ここまで細かく役職が指定されて追放されたのは意外でした。メアリーがどこまで知っていたのかはわかりませんが、死者つながりという点でファウストとフランケンシュタインは予想以上に関連が深かったと言えます。もしかすると、ファウストも魔術的なのか科学的なのかわかりませんが、ヴィクターの様に死体に生命を与えようとしていたのかもしれません。
ファウストが追放されたのと同じ頃に、パラケルススが起こした奇跡とは、生まれつき身体が麻痺していたインゴルシュタットの市会議員の娘を完全に治療した逸話の事でしょう。(注7) その際にパラケルススは、アゾット剣の中に仕込んだ賢者の石を用いたと言われています。 賢者の石はドイツ語では、Stein der Weisen(シュタイン・デア・ヴァイゼン)。複合語(Frankenwords)の多いドイツ語では、ヴァイゼンシュタインでも通用しそうな気がします。実際に、ニュルンベルクの北にはヴァイセンシュタイン城(Weißenstein)があったりします。
秘密結社イルミナティは、1776年にインゴルシュタット大学の教会法学教授アダム・ヴァイスプト(Adam Weishaupt:1748-1830年)によって設立されました。啓蒙主義的な理想を掲げた秘密結社で、急速に力を得ていきました。カトリック系の大学として大きな力を持っていたインゴルシュタット大学を内側から変えようとしていたのかもしれません。しかし、その急進的な活動を恐れられ、カール・テオドールの勅命により、1785年にイルミナティは解散を余儀なくされ、ヴァイスハウプトも逃亡します。以降イルミナティは歴史の表舞台からは姿を消しますが、フランス革命を引き起こしたなど(メアリーもそう主張する本を読んでいます)歴史を影から操っているかもしれない存在として何度も言及される事になります。ヴィクターがインゴルシュタット大学で学んだとされる1780年後半から90年前半頃は、まだイルミナティの壊滅から10年も経っておらず、もしかするとどこかにイルミナティが関わっていたのかもしれません。
このように、インゴルシュタットには様々な土壌があり、そこに根を張ってフランケンシュタインが生まれたのでしょう。
・フランケンシュタイン的なスポット
インゴルシュタットの町中を散策していると、Am Steinという標識を見つけました。(図18) 地図を見るとここが十字路となっており、インゴルシュタットの城郭のほぼ中心に位置しています。少し行くとモリッツ教会があり、その近くはモリッツ通りとなっています。この地名がいつからあるのか気になり、インゴルシュタット博物館のHP(注8)に公開されている古地図を見てみると、メアリーが『フランケンシュタイン』の着想を得た1816年(図19)にも、更には1572年(図20)にもAm Steinとモリッツ通りが存在しており、歴史の古さを感じます。
また市内にはマリア・ヴィクトリア教会という意味深な名前(メアリー+ヴィクターの女性系ヴィクトリア)をした教会もあります。(図21) 名前と珍しい赤い外装に惹かれて、私は足休みついでに立ち寄りましたが、天井一面に巨大なフレスコ画(30m×15m)が描かれており、見ごたえがありました。この教会は、別名アザム教会(Asamkirche)と呼ばれています。私は、何故か教会の赤い外装がアザミの花の色に似ているからかと思っていたのですが、18世紀のバロック様式に影響を与えたアザム兄弟の兄コスマスがフレスコ画を描いていたため名付けられたのでした。ちなみにミュンヘンには、アザム兄弟が趣味のために自費で建てたザンクト・ヨハン・ネポムク聖堂(St.-Johann-Nepomuk-Kirche)があり、こちらもアザム教会(Asamkirche)と呼ばれ観光スポットとなっています。
・高く白い尖塔を探して
『フランケンシュタイン』原作には、ヴィクターが故郷ジュネーヴを離れてインゴルシュタットに初めて訪れた際に、高く白い尖塔(high white steeple)を見たという描写があります。(注9) 実際にインゴルシュタットを訪れてみると町の中心に二本の塔がそびえ立っています。(図22) 図の左側の少し低い方は、監視塔(Pfeifturm)(直訳は笛の塔)で、市内の火事や危険を見つけて、笛で知らせることを目的としています。 ヴィクターが訪れた時も建っていました
図の右側がモリッツ教会(Moritzkirche)の尖塔です。この教会は、インゴルシュタットが都市として創設された9世紀頃まで遡る古い歴史を持っています。ミュンヘンでは2004年に住民投票でフラウエン教会の塔より高い建物を建てる事が禁止されました。(注10) 裏を返すと、そこで議論になる前は慣習によって高い建物を造らなかったという事です。首都ミュンヘンですら21世紀初頭に至るまで、暗黙裡にそれを避けていたことを鑑みると、インゴルシュタットにもヴィクターが訪れた当時に教会より高い建物はなかったと思われます。
また、フランケンシュタインにも影響を与えているベンジャミン・フランクリンが初めて避雷針を立てたのも、フィラデルフィアの教会の尖塔でした。 原作には雷に打たれて、”Blasted stump(雷撃を受けた切り株)”になったオークの樹(注11)が登場しますが、おそらく白い尖塔とは対照的に黒ずんでいたのでしょう。そこにインスピレーションを受けた、ヴィクターが自身の事を嘆いた”Blasted tree”(注12)とも対比の様にも感じます。ホエール版映画では、怪物の誕生シーンは、高い塔の上で雷雨の中で凧を揚げる描写になっていますが、この辺りのイメージが合成されているのかもしれません。
ここまで考えますと、メアリーが実際には聖モリッツ教会の尖塔を見ていなかったとしても、おそらく関連の深い教会の尖塔をイメージしていたと思われます。
・解剖学研究所
街中を一通り散策した後、解剖学通り(Anatomiestraße)(図23)を曲がると、ついに解剖学研究所(Alte Anatomie)に到着です。(図24) ここは、インゴルシュタット大学医学部の当時最先端の研究施設として1723年に創られた施設です。建物の裏側には広い庭があり、薬草が育てられています。(図25) 2020年の年報の表紙に寄稿(図26)した通り、1723年の銅版画と現代の写真がほぼ変わっておらず、こちらの建物はヴィクターが学んだ18世紀末に近い形で保存されているといえるでしょう。現在はドイツ医学史博物館(Deutsches Medizinhistorisches Museum)として、中世の人体模型から、近代の医術の発展、ナチスの人体実験、現代の内視鏡やレーザーなど、昔から現代までの幅広い医療に関する展示を行っています。パラケルススの展示があったことに加え、Die Dosis macht das Gift(薬は服用量によって毒となる)というパラケルススの格言を書かれたキッチン用のタオルも売られています。フランケンシュタイングッズももちろんあり、ドイツ語版『フランケンシュタイン』のフォントを再現したロゴが付いた鉛筆、消しゴム、ノートのメモ帳セット(図27)やドイツ語版の『フランケンシュタイン』などが売られていました。
・インゴルシュタットのトランプ
インゴルシュタット博物館で買ったトランプにはこれまで紹介した、ヴィクターが見た白い尖塔に、ヴィクターが学んだインゴルシュタット大学跡地と解剖学研究所などがカードとなっていました。(図28) 残念なことにジョーカーはフランケンシュタインの怪物ではなく、インゴルシュタットの青いパンサー(Panther)の紋章です。このパンサーは、実在のヒョウやピューマではなく伝説上の動物で、ドラゴンに似ていますがドラゴンの宿敵といわれています。トランプになるほど、フランケンシュタインの関連施設がインゴルシュタットの名所として認識されていることが分かります。
終わりに
最後に、タイトルの意味を解題しますと、高校数学で学ぶ相加相乗平均の不等式(a+b)/2≧√abにインスピレーションを得たものです。フランケンシュタイン200周年を迎える2018年に、√Franken×stein(Root of Frankenstein:フランケンシュタインの根源)を探すために、インゴルシュタットに行こうと思い立ちました。しかし、インゴルシュタットはあまり日本では観光地として紹介されていない部分が多く、直通便もないので、有名なミュンヘンにも行っておこうという少し行き当たりばったりな旅行計画でした。そういう事で、(Munhen+Ingolstat)/2(ミュンヘンとインゴルシュタットを訪れた)のですが、思っていたよりも様々な発見があり、単なるフランケンシュタインの根源探し以上のものを得る事ができたので、その思いを相加相乗平均の式に当てはめ、もはや=ではなかったので、≧から、>へと式を変更しました。
この文章が、ミュンヘンとインゴルシュタットを訪れた際のフランケンシュタインツアーの参考になれば幸いです。インゴルシュタットではフランケンシュタインのミステリーツアーも行っています。(図29)(注13) 私はこの情報を知らずに行ってしまったので、今回見逃した名所も含めて、またいつかインゴルシュタットに行きたいと思っています。
注
(1) メアリー・シェリー著. 森下弓子訳.『フランケンシュタイン』. 東京創元社. (1984). P141. 第11章.
(2) シュタイフ日本公式サイト URL:www.steiff.co.jp.
(3) UW-Digitized Collections. URL:https://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/HistSciTech/HistSciTech-idx?type=turn&id=HistSciTech.Cyclopaedia01&entity=HistSciTech.Cyclopaedia01.p0135&q1=androides
(4) 小野俊太郎著.『フランケンシュタイン・コンプレックス』. 青草書房. (2010). P53.
(5) Yasmin B. Kafai and, Mitchel Resnick Eds. Constructionism in practice: Designing, thinking, and learning in a digital world. Routledge, 1996. P39-40.
(6) 柳原伸洋著. “「想像の場」 としてのインゴルシュタット-『フランケンシュタイン』 を生んだ科学と想像の場.” 知能と情報 30.6 (2018): 289-298.
(7) 大橋博司著.『パラケルススの生涯と思想』. 思索社. (1976). P36.
(8) Stadtmuseum Ingolstadt. URL: https://www.ingolstadt.de/stadtmuseum/
(9) メアリー・シェリー著. 森下弓子訳. 同掲書. P60. 第3章.
(10) 大澤昭彦著. “建物高さの歴史的変遷 (その 2) 海外における建物の高さと高層化について.” 土地総合研究 17.3 (2009): 73-92. P86.
(11) メアリー・シェリー著. 森下弓子訳. 同掲書. P54. 第2章.
(12) 同上. P210. 第19章.
(13) Ingolstadt erleben. フランケンシュタインのページ. URL:www.frankenstein.in